回顧〜ドライチ四兄弟の時代〜
11年前、優勝に届きそうだったあの1年
東京ヤクルトスワローズ20年ぶりの日本一で幕を閉じた2021年のプロ野球。
筆者はオリックス・バファローズとの日本シリーズを全試合リアルタイムでテレビ観戦した。
テレビで純粋に野球の試合を楽しんだ。これはいつぶりのことだろう?
おそらく、この業界で仕事を始めてからは「100%楽しむためのテレビ観戦」はしたことがない。
いつも頭の片隅に「仕事」が入っている状態。
2021年の日本シリーズは、6試合中5試合が1点差で決着がつくという史上稀にみる接戦だった。
接戦の中に、投手や打者の心理、またベンチワークの妙など野球の奥深い部分がたくさん詰まっていた。
その「読後感」において、結局自分の仕事とリンクさせてしまう。
「仕事として、やっぱり日本シリーズや日本一を経験をしてみたかった」
筆者自身がヤクルト球団で広報を担当していたのは2007年から2013年。
2014年から2017年まではNPB(日本プロ野球機構)に出向していて野球日本代表「侍ジャパン」に関する仕事をしていたので2015年のリーグ優勝は経験していない。
しかし、実はビールかけの打ち合わせまで準備し、「あとは優勝してもらうだけ」だったシーズンがある。
それは2011年だ。
最終的に中日ドラゴンズに逆転されて2位に終わってしまったが、前半戦を終了して2位に8ゲーム差をつける独走体制だった。10月初旬まで堅持していた首位の座は、残念ながら最後の最後にこぼれ落ちてしまった。
あれから10年が経ちスワローズは2度優勝、そのうち1回は日本一にも輝いた。筆者にとっては嬉しい気持ちの中に、そこに関われなかったという寂しさがほんのちょっぴりある。
しかし、そんなことよりももっと大きな気持ちとして「そんなはずじゃなかったのになぁ」と感じたことがある。それは、15年21年のどちらの優勝にも「ドライチ四兄弟」が関わっていないということ、についてである。
「ドライチ四兄弟」とは、村中恭兵・増渕竜義・由規・赤川克紀の4人を呼ぶ愛称で、2005年から2008年にかけて4年連続で高校生投手(※05年~07年は高校生と大学・社会人のドラフトが分離開催されていた)が「ドラフト1位」で入団してきたことから、マスコミやファンから「4人の総称」として親しまれていた。
筆者がヤクルト球団に入社した2007年、スワローズは最下位に終わり古田敦也兼任監督の引退・退団を象徴するように「一つの大きな時代」が終焉した。
その年に5球団からの抽選を経てスワローズに入団してきたのが由規投手で、「高校BIG3」として大きな注目を浴びていた。筆者は新入団発表から年明けの新人合同練習、キャンプの序盤まで由規の専属広報的な立ち回りを行った。
2008年から筆者が広報を担当した13年までのスワローズ投手陣は、石川雅規・館山昌平の2枚看板に若い投手陣(村中恭兵・増渕竜義・由規・赤川克紀)が加わって投手王国が完成しスワローズに再び黄金時代が到来する、そのような期待に満ちた時代だったと記憶している。首位を快走し優勝に手が届きそうだった2011年は、まさにその期待が最も現実に近づいたタイミングだったのではないか。
そういうこともあり、筆者の中には「2011年の優勝を逃した」という無念さと、スワローズでの「ドライチ四兄弟」のストーリーが強くリンクしている。共感していただけるスワローズファンの方も多いのではないか、と思う。
四兄弟への希望
前述したが、筆者が入社した2007年スワローズは最下位に沈んだ。
古田選手兼任監督が現役引退及び退団、高津臣吾投手や石井一久投手、ラミレス選手など90年代や2001年の日本一を牽引した選手たちがスワローズを去った。「一つの時代が終わった」そんな雰囲気の中で2007年10月4日にプロ初勝利をあげたのは増渕竜義だった。
次世代のスワローズを担う希望は、同日となった鈴木健選手の引退試合やラミレス選手のシーズン200本安打達成などで若干霞んでしまった感はあるが、その期待は確かなもので翌年から背番号を高津臣吾投手が背負っていた「22」へ変更する。
2008年、筆者が専属広報的なサポートをするほど注目を浴びていた由規は怪我もあり開幕二軍スタート。増渕も順調に開幕ローテーション入りを果たしたが、増渕以上に強烈なインパクトを残したのは村中恭兵だった。
村中は2005年高校生ドラフト1巡目でスワローズへ入団。ルーキーイヤーの2006年はシーズン終盤の1試合に登板。翌2007年は1軍登板はなかったものの、8月に北京プレオリンピック日本代表に選出されるなど期待の高さを伺わせた。08年は4月4日中日戦でプロ初勝利を飾ると、5月3日巨人戦では9回一死まで無安打ピッチングの快投。180cm後半の高身長さながらの「大型左腕ぶり」を見せつけた。しかしシーズン後半の8月に左肘内側側副靱帯の損傷が判明し、翌09年まで尾を引くこととなった。
08年の開幕ローテーション入りした増渕は同年11試合に先発し3勝をあげたが、ブレイクというレベルでの活躍は見せつけることができず、翌09年も練習中のアクシデントもあり一軍での快投はしばらくお預けとなる。
そんな中、08年の後半に鮮烈なデビューを果たしたのがルーキーの由規。8月30日の横浜戦でプロ初登板初先発。9月6日神宮での巨人戦にて6回3失点でプロ初勝利。被安打2に対して三振を8つ奪う快投で、5位に終わったチームにとって大きな希望となった。
その年のドラフト1位で赤川克紀が入団する。
村中・増渕・由規の3人が揃って大きな可能性を見せた2008年ではあったが、翌2009年に目立った活躍をしたのは由規のみ。投球回数を前年の29 2/3回から121回まで伸ばし、5勝をあげた。オールスターにも選出され(血豆がつぶれた影響のため登板はなかった)、スワローズとして初進出したクライマックスシリーズにも石川雅規・館山昌平の両エースに続く形で第3戦に先発した。
そして2010年、いよいよ3人が揃って活躍しはじめる。
巨人との開幕3連戦の2・3戦目を由規と村中が担い、チームを勝利へ導く。チーム自体は序盤低迷し、5月26日に早くも借金が19まで膨らんだ時点で高田繁監督が休養。小川淳司監督代行のもとで後半から終盤にかけて盛り返し、最終的には貯金4の4位で終わるという波乱に満ちたシーズンだったが、石川・館山とともに村中・由規が二桁勝利を達成し、増渕はセットアッパーとして57試合に登板、20ホールドを記録。スワローズの浮沈を3人の若き投手が握るようになっていた。
まだこの時点では「三兄弟」だったが、いよいよ2011年シーズン、「ドライチ四兄弟」が誕生する。
東日本大震災の影響で4月12日に開幕したシーズン、開幕から5試合の先発投手は石川雅規・由規・館山昌平・村中恭兵・増渕竜義だった。
まさに2008年ごろからファンが思い描きはじめた「未来予想図」が形になった瞬間だったに違いない。増渕はこのシーズン先発に再転向し、交流戦期間を除いてシーズン最後までローテーションを守った。
村中は途中離脱を挟むも後半戦から戦線復帰し、7月29日の巨人戦でプロ初完封を記録。由規も9月には肩の違和感で離脱してしまったが、15試合に先発し7勝をあげた。
その年のスワローズは前述したとおり前半戦を2位と8ゲーム差の首位で折り返したが、後半戦失速。8月に入った時点で15あった貯金を1ヶ月で6まで減らしてしまう。
このような苦しい時に、颯爽と登場したのが3年目・21歳になったばかりの赤川克紀だった。
赤川は入団後2009年・10年は1試合づつの登板に終わるが11年の後半戦に1軍に上がると8月18日の横浜戦でシーズン初先発しプロ初勝利をあげる。その後はローテーションに入り首位ながらも苦しい戦いを続けるスワローズを支えた。
そして9月7日戦の横浜戦を7回無失点に抑え2勝目を獲得すると、翌日の「スポーツニッポン」が「ドライチ四兄弟」という言葉を使って赤川の活躍を取り上げた。
(参照)スポーツニッポン 2011年9月8日「ドライチ4兄弟の末弟・赤川2勝!ヤクルト再び貯金10」
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/08/kiji/K20110908001578210.html
この時に「ドライチ四兄弟」という言葉が初めて大きく取り上げられたと記憶している。この時点で由規は離脱していたが、他の3人はクライマックスシリーズで躍動する。
初めて神宮で開催されたクライマックスシリーズ、巨人とのファーストステージ。第1戦、1-1の同点で迎えた6回表から村中が登板。9回二死までの3 2/3回を投げ抑えの林昌勇に繋ぐ。その間スワローズは2点追加しており、村中が記念すべき勝利投手に輝く。
第2戦は1点リードされた6回・7回の2イニングを増渕が無失点に抑えたものの敗戦。そして第3戦、赤川克紀が先発登板。赤川は6 2/3回を無失点に抑えた。1/3回を押本健彦が繋ぎ、8回9回の2イニングを村中がリリーフ登板。
最終打者となった代打・高橋由伸を空振り三振に切って取った瞬間、神宮球場は揺れに揺れた。
筆者が広報を務めていた期間には、あんなに球場が揺れてあそこまで傘が舞った夜は後にも先にもなかった。
ファイナルシリーズでは中日ドラゴンズに敗れたスワローズ。
優勝を逃した悔しさ、無念さはクライマックスシリーズファーストステージで宿敵巨人を破ったことから軽減された気がした。その巨人の重量打線を相手に村中・増渕・赤川が躍動。
若き投手王国「ドライチ四兄弟の時代」をこれから本格的に迎えるのだと思っていた。2011年時点で村中恭兵が24歳。4人の時代がその後10年続いても全くおかしくはない。
しかし、四兄弟が揃っての躍動は、結果として2011年以降訪れることはなかった。
2012年のシーズンは前年の後半にブレイクした赤川克紀がローテーションでフル回転。8勝を獲得し、規定投球回にも達した。さらにはオールスターにも選出されて3イニング無失点で表彰選手にも選ばれた。
村中恭兵も2年ぶりの二桁勝利を記録。シーズン終了後の11月には侍ジャパンにも選出された。
増渕竜義は再びセットアッパーとして49試合に登板。
しかし、由規はシーズンを通じて1軍で登板することはなかった。
2011年9月に肩の痛みで離脱して以降、肩以外の故障や手術なども挟み、1軍に復帰するのは2016年まで待つこととなる。
2013年は村中・増渕・赤川とも昨年までのような活躍ができず、チームは2007年以来となる最下位に沈んだ。
そのシーズン限りで筆者はNPBへ出向となり、球団を離れた。
そして14年開幕直後の3月31日に増渕竜義が北海道日本ハムファイターズへトレードとなり、「ドライチ四兄弟」が揃い踏みする可能性が消滅してしまった。
その後の「四兄弟」
2015年、2年連続最下位に沈んでいたスワローズは一転セリーグを制覇をする。
しかし、村中・由規・赤川揃って1軍登板なしに終わった。同年、「四男」赤川克紀そしてファイターズの「次男」増渕竜義が球団を自由契約となり、引退。増渕が27歳、赤川が25歳。故障などもあったのかもしれないが、本人たちはもとより、関わった指導者やファンからしても、あまりにも早い引退となってしまったと感じたのではないか。
「長男」の村中恭兵は16年に主に中継ぎとして復帰し52試合に登板、7勝をあげるがその後は腰の故障などもあり17年に13試合、18年は3試合、19年は登板なしに終わり自由契約。その年の12月にABL(オーストラリアベースボールリーグ)への参加(ニュージーランドのオークランドチュアタラで9試合に登板し2勝、同チームの地区優勝に貢献)、20年の琉球ブルーオーシャンズを挟み21年にBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団。
「三男」由規は途中育成契約なども挟むが2016年に再び支配下選手となり、7月24日中日戦で実に1786日ぶりの勝利投手となる。翌17年も10試合に先発登板し3勝をあげるが、18年途中に故障離脱。そのままシーズンを終えスワローズを自由契約となる。
2019年は故郷・仙台を本拠地とする東北楽天ゴールデンイーグルスと育成契約し、7月に支配下選手契約。9月29日のシーズン最終戦の9回に登板し2奪三振。しかし、翌20年は試合出場がなく自由契約。
トライアウトへの参加を経て、BCリーグの埼玉武蔵ヒートベアーズに入団した。
「長男」と「三男」の交差、そして長男引退
2021年はBCリーグの東地区に村中恭兵と由規が「同居」した。村中は先発だけでなくリリーフでも登板。由規はシーズンに登板した15試合全てに先発として登板した。
そして2人の投げ合いが6月30日に実現した。
筆者はインターネット配信で試合を観戦した。初の投げ合いでありながら、おそらくもう何度もこないであろう機会。四兄弟と同じ時代を過ごして、夢をみた1人としてライブ配信を見なければいけないと思った。
同じような想いで試合を観戦したスワローズファンもいたに違いない。
(参照)日刊スポーツ 2021年6月30日 元ヤクルト「ドライチ4兄弟」由規と村中恭兵の投げ合い実現「やっときた」
https://www.nikkansports.com/baseball/news/202106300001248.html
村中はシーズン限りで現役引退となった。
筆者は「コロナ直前」の2020年正月を村中恭兵と過ごした。前述したニュージーランド球団への仲介を行い、視察と応援を兼ねて正月に11時間のフライトを経てオークランドまで会いに行ったのだ。
NPB通算46勝の実績を持つ左腕の仲介は、野球が発展中の国にとても喜んでもらえた。
そしてチームには北方悠誠ら若い日本人投手が3人所属していたが、村中はいい兄貴分として面倒を見ていた。技術的な手本にもなっていたに違いない。その「長男ぶり」は指導者にも向いているのではないかと思っている。
21年のヒートベアーズ地区優勝に貢献した由規は、コーチ兼任として2022年も現役を続行する。まだまだプロ選手としての由規の投球を見ることができる。
四兄弟の関係は続く
「次男」増渕竜義は現役引退後、埼玉県上尾市で野球アカデミーを展開している。12月のスクールイベントには由規もゲストで参加していた。「四男」赤川克紀は軟式野球チーム「東京ヴェルディバンバータ」でマウンドに立ち続けている。それぞれの立場で4人が野球に関わり続けて、たまに交差していく。
それこそが今後楽しみな「四兄弟」の姿である。
筆者がヤクルト球団に在籍していた中で最も優勝に近づいた2011年。
そのシーズンに初めて揃い踏みしたドライチ四兄弟は、4人合計で65試合に先発登板している。スワローズがその年優勝を逃したこと、四兄弟の揃い踏みがその年限りだったこと。
「たられば」はプロ野球を楽しむファンの醍醐味だが、スワローズファンの野球談義に出てくる1つの「たられば」として、いつまでも語り継がれてほしいと思っている。
【編集部より】
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